今日はタイトル通り、ASDの診断によってアイデンティティを見失った深い悲しみの話です(?????)
人に優しく
僕はこれまでの人生、できる範囲で人に優しくしたいと
心がけていました。
情けは人の為ならずとかそういう高尚なものではないですが、
理由がいくつかあります。
乱暴な兄の素行を見てこうはなるまいと思ったり、
中学理科の移動教室の時に、クラスメイトのダウナー系スレンダーショートボブ女子にふと「○○君って優しいよねー」
と声をかけられたのがめちゃくそに嬉しかったりとかがありますが、
最も大きな理由が、ラノベ作品「戦う司書」に登場するキャラクター
「ノロティ=マルチェ」という女の子の存在です。
僕は今でこそ経済的困窮によりオタク趣味から遠ざかっている者ですが、
青春時代はゲームにラノベに漫画にアニメに、バイト代の大半を注ぎ込んでのめり込んでたと思います。
戦う司書も中高生くらいのときに出会ったコンテンツですが、大人になった今でも好きなキャラクターがノロティです。
アニメ化もされた作品ですが、知らない方もいらっしゃると思うので簡単に説明します。
「戦う司書シリーズ」とは
スーパーダッシュ文庫から発売されている全10巻のライトノベル作品及び
2009年秋アニメ作品です。もうそんな昔なのか・・・?(絶望
人が死ぬと『本』となり、その『本』に触れると生きていた頃のすべての記憶が読み取れるという世界観の能力バトルファンタジー作品です。人生におけるありとあらゆる黒歴史が死ぬだけで暴かれる最悪の世界
『本』は「バントーラ図書館」という場所に収められており、
そこで働き、本を巡る様々な紛争を戦い抜く司書(武装司書と呼ぶ)のお話なので「戦う司書」というわけです。
「この世界は、あたしのものなんです」
これは、第6巻「戦う司書と荒縄の姫君」でノロティが放った言葉で、
その意味を知った時に僕はめちゃくちゃに感動して、
以来座右の銘として胸に刻んで生きてきました。
もちろんノロティは、世界の支配者気取りの極悪人というわけではなく、
武装司書という過酷な戦いに身を置く立場でありながら、人を殺めることを嫌う、心優しい元気な女の子です。
この言葉の真意は、次に引用するノロティと彼女の上司・イレイアとの会話から
読み解くことができます。
「でも、あたしが苦労するのは全然たいしたことじゃないんです。あたし一人が苦労して、誰かが幸せになれたらとんとんですし、二人も三人も幸せになったら、むしろお得ですから」
「それでいいの?あなたが苦労を重ねることになっても」
「いいんです。だって、みんなの幸せは、全部あたしのものなんですから。あたしが苦労したよりも、ずっとたくさん幸せなんですから」
世界の全部の国と、人のみならず、海と山と街のすべてを自分のものとし、
ただその彼女の世界の住人が、幸せになることができればそれで良いという生き様が現れたセリフなのです。
初読から10年以上経った今でもこの辺の会話で泣きそうだふざけるな
で、これを始めて見た僕の感想が
ウオ〜〜〜!めっちゃわかるゥ〜〜〜〜!!!!俺もこんな生き方をするぜ!
というわけで僕の座右の銘が「世界はあたしのもの」となったわけです。
「世界はあたしのもの論」とASD
ASD当事者の方や詳しい方はもうオチが読めてきた頃かと思いますが。
実際この「世界はあたしのもの論」を意識して生活を始めてみたところ、
わりとすんなり馴染んだんですよね。
元々頼まれごとはあんまり断らなかったり、困っている人がいたらできる範囲で
力になりたいとは考えていたので、
この言葉と出会って考え方がガラッと変わったというより、
改めて人の助けになろうと考えたり、人が喜ぶことで自分も嬉しくなれるという
意識がより強固なものになり、この言葉が僕という人間が生きていく上での
大きな指針となったのでした。
で、学生時代から時は流れ、20代後半。晴れてADHDとASDの診断を受けました。
ADHDの諸症状についてはなんとなく自分で調べて理解はしていたのですが、
ASDについては大雑把にコミュニケーションが苦手くらいの認識しかなかったので、
改めて調べてみたんですね。
そしたら、出てきたんですよ。
「自他境界の曖昧さ」
ASDに見られる特徴で、簡単に言うと、
自分と相手との間にある「壁」のようなものが人より薄い、もしくはないことで
「自分と相手は別である」という認識ができず、
周りの人の感情に過度に共感してしまったり、他人の抱える問題に
本当は自分は関係ないのに責任や負い目を感じてしまうようなことです。
周りの人の感情、マイナスだけでなく、プラスの感情でもです。
誰かが不機嫌なら、自分も釣られて不機嫌になりますし、誰かが嬉しければ、
自分も嬉しく・・・あれ?
「いいんです。だって、みんなの幸せは、全部あたしのものなんですから。あたしが苦労したよりも、ずっとたくさん幸せなんですから」
ワーーーーー!!!!!なんてこった!!!
俺の心を揺さぶって俺の人生の標となってくれてたこのマインドが!
俺が10数年大事にしてきたアイデンティティが!!
実は単なる発達障害の症状でした!!!!ふざけんな!!!!
自分という存在の消失!
もしかしたら、この苦しみがわからない人がいるかもしれません。
実際、こうして文章にしていますが伝え方がかなり難しく、何度も書き直しています。
しかし、話はこの「世界はあたしのもの論」に限らないことでして。
忘れ物が多い、マルチタスクが苦手、人の話を集中して聴けない、昼間眠い・・・
いろんな困りごとを抱えてトラブルだらけの人生でしたが、
集中できるときは時間を忘れて没頭できる、人が気づかないところに気づくといった、
強みとも取れるような、自己を肯定できる「自分の個性」があると思っていました。
ところがどっこい!蓋を開けてみれば、全部発達障害!全部ADHD!全部ASDで説明が付く!!
じゃあ、俺・・・俺って何?俺という人間ってなんなんだ・・・?
わからないんです。わからなくなったんです。
発達障害の診断が出たその時から、自分という一人の人間が、
急に消えてしまって、「発達障害者」という
モブキャラになってしまったような……?
ちょっとまだうまく言語化ができないのでわけわからんことになっているのですが、
発達障害者の方々みんながこれで悩んでるってことは多分なくて、
たまたま自分が「自分らしさ」「個性」っていうところにこだわりがあって、
それが突然奪い去られてしまったような気がしたので、めちゃくちゃ凹んでいるんだと思います。
人によっては、「え?そんなに気にすることか」っていうことだと思います。
絶賛迷走中
というわけで、僕は今人生の迷子です。自分を見つめ直す、
自分という存在を取り戻すためというのも
このブログを始めた理由のひとつ(1割くらい)ではありますが、
それが見つかるのはまだまだ先になりそうです。
とりあえず、みんなも戦う司書を読もう!
能力バトルの群像劇なので、ジョジョとか好きな人ハマると思うよ!